05 | 10 |
2010 |
ガルシアPさん主催『Kaleido/m@ster』参加作品
Saturday Clock
鏡のように磨かれたフロアに靴が鳴る。
土曜の午前十一時、都内のとあるダンススタジオ。鏡張りの壁によく音を鳴らす床だけの空間に、赤と青の二色が交差した。
リズムを刻んで踊る二人の少女がその正体。
肩まで伸びる茶がかったセミロングに、頭の両端に結んだリボン。幼さを残す可愛らしい顔を汗で汚しながら、ただただ真剣に踊る少女=赤。赤色のジャージを着てダンスレッスンに励むのは天海春香だ。その様子は、例えるならば情熱的な赤い炎。
対して、静かに燃え盛る青い炎に例えるならば如月千早だろう。目鼻立ちの整った綺麗な顔に真剣な表情を携えて、腰まである長い髪を振ってひたすら踊る。彼女が動くたびに流れる長髪は、まるで流星が尾を引いているよう。青色のジャージは、まさしく春香の対極である。
二極の色がシンクロしながら踊り交差する様は壮観の一言。
が、如月千早は違和感を拭えないでいた。どうやら赤い炎は、その勢いを弱めつつあるようだ。
「わ、わわっ!」
きゅっと床が鳴いた瞬間、勢いを余らせた春香は前のめりに転倒した。身体の正面から見事なダイビングを披露した友人に、如月千早も足を止めて嘆息する。これで何回目のミスだろうか。思うようにレッスンの進まない一因にもなっていた。
「春香、今日はダンスレッスンの仕上げのはずよ」
「えへへ。ゴメンね、千早ちゃん。もう1回、いいかな?」
悪戯っぽく舌を出す春香は、しかし振るわない表情だった。昨日は完成に近いところまで出来上がっていたはずのダンスもあまりキレがない。
憤りの感情がふつふつと千早の心中を侵食していた。焦り、という可燃物が油を注いでいたのかもしれない。喉まで出掛かった言葉を堪え切れなくなり、思わず吐き出してしまったのに気づいたのは、喋り出した後であった。
「なんで昨日より動きが悪いの?」
厳しい口調。調子の出ない春香を労わるより、責める感情が表立った発言だった。
理由はある。今日中にダンスレッスンが仕上がれば、週明けからは待ち侘びた歌のレッスンに入るとプロデューサーから約束されていたからだ。
歌至上主義の如月千早にとって、ダンスは歌を際立たせるための副次品でしかない。わざわざ“おまけ”のために時間を割くのが惜しいのである。
荒ぶった感情を沈めるために大きく深呼吸。そのまま息を吐き出す。そんな千早の内心を理解しているのか、春香は申し訳なさそうに俯いていた。だのにイライラとした気持ちが直らないのは、春香の動きがどこか緩慢であったからだろう。
やる気がない。そんな単語が脳裏を掠めた。
「あなたにはプロ意識が足りないのよ!」
と、そこまで言って口を噤む。さすがに言い過ぎだ。
沈黙が、まるで痛々しい棘のように千早の肌を刺す。まるで茨の中に閉じ込められた心境だった。茨は無論のこと、自分の振り撒いた心無い言葉に他ならない。
それを取り払う術がない千早は、居た堪れなくなってスタジオを飛び出した。あっ! と春香は声をあげたが、それも言葉にならず静かに散った。
●
――私、嫌な子だ。
ロビーのベンチに腰掛けた千早は、一人盛大に溜息を吐いた。去り際に見た春香の表情に胸が軋む。あんな、泣きそうな顔をさせてしまった自分が恨めしかった。
……どうしてあんなこと。
いや、答えは明白だ。結局、如月千早という人間は他人を省みない非情な人間であるという、ただそれだけのこと。765プロに入社し、仲間達と触れ合うことで、少しは連帯感や協調性が育まれたつもりでいたが、とどのつまり、自分は自分さえ良ければそれでいいと感じる人間なのだ。
ネガティブな思考が余計心を荒ませた。あてどもない視線を床に移したところで、
「あ、いた! 千早さーん」
自分を呼ぶ明るい声。つと顔を上げると、廊下の先で手を振っている金髪の少女がいた。
星井美希。十四歳ながらその卓越したボディスタイルを武器に活躍中のアイドル。
彼女が走り寄って来る。そのつど揺れ動く二つの核弾頭に、千早は別の意味で後頭部を殴られたような錯覚を覚えた。いや、ボディブローでも構わないけれど。何故かという質問は野暮である。察してほしい。否、察しろ。
「千早さん今日はレッスン午前だけで、午後フリーだよね?」
千早の隣に滑り込んだ美希は、挨拶も彼方に投げ捨て、
「お昼食べに行こう! 美希ねー、千早さんの為に美味しいお蕎麦屋さん調べて来たの!」
蕎麦屋? と首を傾げてふと思い至る。最近は蕎麦に興味があると、先日収録したトーク番組で言っていたけれど――あれの放送はまだしばらく先のはず。それまで食について話す機会などさほどなかったはずだし、そのことを美希が知っているのも妙な話だ。
いや、そもそも、ダンスを完成させるために無理矢理捻じ込んでもらった今日のスケジュールを美希が知る由などない。
どういうことだ?
「美希……その話、誰から聞いたの? 私の今日のスケジュールは?」
きょとんと目を丸くする美希。次いで出てきた人物の名前に、千早は眉が吊り上るのを感じた。
●
また足が挫けた。半ば倒れ込む格好で床に手をついた春香は、滴る汗が床に零れるのを見た。時刻はすでに十二時を回っている。
あれから一時間。遅れを取り戻そうと必死に踊り続けたが、この様だ。春香は歪に表情を歪めた。掠れた笑い声が漏れ、駄目だな私、と弱気な心情をぽつりと呟く。これじゃ、千早ちゃんも呆れるよね。
視界がぼんやり霞む。どうやら涙腺も不調のようだ。情けない嗚咽を漏らしそうになった時、不意に、視界の先に誰かの爪先が入ってきた。同時に降ってくるとある人物の声。
「明け方まで長電話なんて、ダメじゃない」
反射的に顔を上げると、そこには鋭い視線の如月千早が立っているではないか。怒っている。そう分かるほどに、千早の瞳は強力な怒気を放っていた。
「今日はダンスレッスンだって知ってたのよね?」
なんだ、バレちゃったのか。前髪が目元に影を落とし、情けない表情を隠してくれたのが幸いだった。千早は続ける。
“寝不足”で体調不良なんてホントにプロ意識が欠けてる証拠だ、と。
「だって、美希が千早さん、千早さんって嬉しそうにしゃべるから……」
実際に、昨晩遅くまで続いた美希との電話は早めに切り上げるつもりだったのだ。
でも千早の話題で盛り上がった途端に、春香は心に疼く何かを感じた。例えるならば、そう、子供の頃、大事な宝物を取っていかれたような寂しさ。いや、間違いなく憤りもあったはず。とかくそういう気持ちが原動力となって、口が勝手に白熱するのを止められなかったのだ。
きっと、それは嫉妬というのだろう。
けれど、けれども――。
「私だって……」
千早ちゃんのこと、美希より大好きだもん。
真っ直ぐに千早に発せられた言葉。次の瞬間、千早の顔が真っ赤に染まった。沸点を表すゲージが上昇するかのように。恥ずかしげに顔を逸らした千早はわざとらしく咳払いをひとつ。ちらりと横目で窺いながら、こう言った。
「今日の午後のオフ、無しだから」
「え?」
「今日中にダンスレッスン仕上げるの。十六時から、レッスン再開よ」
ケータイを取り出して画面を春香に向ける。そこにはプロデューサーから、レッスンスタジオの延長許可を取った旨と、二人を応援する言葉が綴られていた。
ほら、立って。差し出される手の平。あなたがいないとユニットの意味がないわ。
「そうだよね。へへ。私、頑張んなきゃ!」
「16時にはプロデューサーも来るわ。それまでは、自由時間よ」
と、立ち上がった春香に、彼女はジャージのポケットから鍵を取り出し手渡した。
「このフロアのミーティングルームB室、十六時まで使えるわ」
そう言われて、しかしぴんと来ない。意図を理解できずに首を傾げると、
「仮眠しなさい。三時間でも眠れば、ずっと楽になるから」
千早の顔が爆発寸前の如く更に真っ赤になったのを見て、春香は思う。千早は自分のこと、心配してくれてたんだ。
もう、私行くからね! ぷんすかと怒って背を向けた千早は本当に可愛らしい。立ち去ってしまいそうになる千早の裾を慌てて掴んだ春香は、小さく、囁くように唇を動かした。
「えっとね、千早ちゃん……」
「分かってる……。また二人でがんばりましょうね」
その日、夜遅くにダンスは完成した。誰も文句のつけようがない、素晴らしい出来栄えだったという。
Saturday Clock
鏡のように磨かれたフロアに靴が鳴る。
土曜の午前十一時、都内のとあるダンススタジオ。鏡張りの壁によく音を鳴らす床だけの空間に、赤と青の二色が交差した。
リズムを刻んで踊る二人の少女がその正体。
肩まで伸びる茶がかったセミロングに、頭の両端に結んだリボン。幼さを残す可愛らしい顔を汗で汚しながら、ただただ真剣に踊る少女=赤。赤色のジャージを着てダンスレッスンに励むのは天海春香だ。その様子は、例えるならば情熱的な赤い炎。
対して、静かに燃え盛る青い炎に例えるならば如月千早だろう。目鼻立ちの整った綺麗な顔に真剣な表情を携えて、腰まである長い髪を振ってひたすら踊る。彼女が動くたびに流れる長髪は、まるで流星が尾を引いているよう。青色のジャージは、まさしく春香の対極である。
二極の色がシンクロしながら踊り交差する様は壮観の一言。
が、如月千早は違和感を拭えないでいた。どうやら赤い炎は、その勢いを弱めつつあるようだ。
「わ、わわっ!」
きゅっと床が鳴いた瞬間、勢いを余らせた春香は前のめりに転倒した。身体の正面から見事なダイビングを披露した友人に、如月千早も足を止めて嘆息する。これで何回目のミスだろうか。思うようにレッスンの進まない一因にもなっていた。
「春香、今日はダンスレッスンの仕上げのはずよ」
「えへへ。ゴメンね、千早ちゃん。もう1回、いいかな?」
悪戯っぽく舌を出す春香は、しかし振るわない表情だった。昨日は完成に近いところまで出来上がっていたはずのダンスもあまりキレがない。
憤りの感情がふつふつと千早の心中を侵食していた。焦り、という可燃物が油を注いでいたのかもしれない。喉まで出掛かった言葉を堪え切れなくなり、思わず吐き出してしまったのに気づいたのは、喋り出した後であった。
「なんで昨日より動きが悪いの?」
厳しい口調。調子の出ない春香を労わるより、責める感情が表立った発言だった。
理由はある。今日中にダンスレッスンが仕上がれば、週明けからは待ち侘びた歌のレッスンに入るとプロデューサーから約束されていたからだ。
歌至上主義の如月千早にとって、ダンスは歌を際立たせるための副次品でしかない。わざわざ“おまけ”のために時間を割くのが惜しいのである。
荒ぶった感情を沈めるために大きく深呼吸。そのまま息を吐き出す。そんな千早の内心を理解しているのか、春香は申し訳なさそうに俯いていた。だのにイライラとした気持ちが直らないのは、春香の動きがどこか緩慢であったからだろう。
やる気がない。そんな単語が脳裏を掠めた。
「あなたにはプロ意識が足りないのよ!」
と、そこまで言って口を噤む。さすがに言い過ぎだ。
沈黙が、まるで痛々しい棘のように千早の肌を刺す。まるで茨の中に閉じ込められた心境だった。茨は無論のこと、自分の振り撒いた心無い言葉に他ならない。
それを取り払う術がない千早は、居た堪れなくなってスタジオを飛び出した。あっ! と春香は声をあげたが、それも言葉にならず静かに散った。
●
――私、嫌な子だ。
ロビーのベンチに腰掛けた千早は、一人盛大に溜息を吐いた。去り際に見た春香の表情に胸が軋む。あんな、泣きそうな顔をさせてしまった自分が恨めしかった。
……どうしてあんなこと。
いや、答えは明白だ。結局、如月千早という人間は他人を省みない非情な人間であるという、ただそれだけのこと。765プロに入社し、仲間達と触れ合うことで、少しは連帯感や協調性が育まれたつもりでいたが、とどのつまり、自分は自分さえ良ければそれでいいと感じる人間なのだ。
ネガティブな思考が余計心を荒ませた。あてどもない視線を床に移したところで、
「あ、いた! 千早さーん」
自分を呼ぶ明るい声。つと顔を上げると、廊下の先で手を振っている金髪の少女がいた。
星井美希。十四歳ながらその卓越したボディスタイルを武器に活躍中のアイドル。
彼女が走り寄って来る。そのつど揺れ動く二つの核弾頭に、千早は別の意味で後頭部を殴られたような錯覚を覚えた。いや、ボディブローでも構わないけれど。何故かという質問は野暮である。察してほしい。否、察しろ。
「千早さん今日はレッスン午前だけで、午後フリーだよね?」
千早の隣に滑り込んだ美希は、挨拶も彼方に投げ捨て、
「お昼食べに行こう! 美希ねー、千早さんの為に美味しいお蕎麦屋さん調べて来たの!」
蕎麦屋? と首を傾げてふと思い至る。最近は蕎麦に興味があると、先日収録したトーク番組で言っていたけれど――あれの放送はまだしばらく先のはず。それまで食について話す機会などさほどなかったはずだし、そのことを美希が知っているのも妙な話だ。
いや、そもそも、ダンスを完成させるために無理矢理捻じ込んでもらった今日のスケジュールを美希が知る由などない。
どういうことだ?
「美希……その話、誰から聞いたの? 私の今日のスケジュールは?」
きょとんと目を丸くする美希。次いで出てきた人物の名前に、千早は眉が吊り上るのを感じた。
●
また足が挫けた。半ば倒れ込む格好で床に手をついた春香は、滴る汗が床に零れるのを見た。時刻はすでに十二時を回っている。
あれから一時間。遅れを取り戻そうと必死に踊り続けたが、この様だ。春香は歪に表情を歪めた。掠れた笑い声が漏れ、駄目だな私、と弱気な心情をぽつりと呟く。これじゃ、千早ちゃんも呆れるよね。
視界がぼんやり霞む。どうやら涙腺も不調のようだ。情けない嗚咽を漏らしそうになった時、不意に、視界の先に誰かの爪先が入ってきた。同時に降ってくるとある人物の声。
「明け方まで長電話なんて、ダメじゃない」
反射的に顔を上げると、そこには鋭い視線の如月千早が立っているではないか。怒っている。そう分かるほどに、千早の瞳は強力な怒気を放っていた。
「今日はダンスレッスンだって知ってたのよね?」
なんだ、バレちゃったのか。前髪が目元に影を落とし、情けない表情を隠してくれたのが幸いだった。千早は続ける。
“寝不足”で体調不良なんてホントにプロ意識が欠けてる証拠だ、と。
「だって、美希が千早さん、千早さんって嬉しそうにしゃべるから……」
実際に、昨晩遅くまで続いた美希との電話は早めに切り上げるつもりだったのだ。
でも千早の話題で盛り上がった途端に、春香は心に疼く何かを感じた。例えるならば、そう、子供の頃、大事な宝物を取っていかれたような寂しさ。いや、間違いなく憤りもあったはず。とかくそういう気持ちが原動力となって、口が勝手に白熱するのを止められなかったのだ。
きっと、それは嫉妬というのだろう。
けれど、けれども――。
「私だって……」
千早ちゃんのこと、美希より大好きだもん。
真っ直ぐに千早に発せられた言葉。次の瞬間、千早の顔が真っ赤に染まった。沸点を表すゲージが上昇するかのように。恥ずかしげに顔を逸らした千早はわざとらしく咳払いをひとつ。ちらりと横目で窺いながら、こう言った。
「今日の午後のオフ、無しだから」
「え?」
「今日中にダンスレッスン仕上げるの。十六時から、レッスン再開よ」
ケータイを取り出して画面を春香に向ける。そこにはプロデューサーから、レッスンスタジオの延長許可を取った旨と、二人を応援する言葉が綴られていた。
ほら、立って。差し出される手の平。あなたがいないとユニットの意味がないわ。
「そうだよね。へへ。私、頑張んなきゃ!」
「16時にはプロデューサーも来るわ。それまでは、自由時間よ」
と、立ち上がった春香に、彼女はジャージのポケットから鍵を取り出し手渡した。
「このフロアのミーティングルームB室、十六時まで使えるわ」
そう言われて、しかしぴんと来ない。意図を理解できずに首を傾げると、
「仮眠しなさい。三時間でも眠れば、ずっと楽になるから」
千早の顔が爆発寸前の如く更に真っ赤になったのを見て、春香は思う。千早は自分のこと、心配してくれてたんだ。
もう、私行くからね! ぷんすかと怒って背を向けた千早は本当に可愛らしい。立ち去ってしまいそうになる千早の裾を慌てて掴んだ春香は、小さく、囁くように唇を動かした。
「えっとね、千早ちゃん……」
「分かってる……。また二人でがんばりましょうね」
その日、夜遅くにダンスは完成した。誰も文句のつけようがない、素晴らしい出来栄えだったという。