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 第九話 美希と美女と銃と


 孤児院の一件から数日後、純喫茶ムッシュに宙と美希の姿があった。
 ちょうど地下基地に居合わせた宙は、前触れもなく美希に呼び出されたのである。店内の端、もっとも人目の付き難い席に着いた二人の目の前には、日替わりのランチセットと季節のデザートと+αでおにぎりが豪勢に並んでいた。ほくほくと顔を輝かせる美希に対し、宙は苦い表情で三度目の財布チェックを行っている。
 「これ全部、俺の奢りになるのか……」
 会計の時には小銭の音もしないだろう財布を見つめながら、宙は再度確認する。
 「とーぜん! 孤児院に行こうって名案は美希が出したんだから、ご飯くらい御馳走してくれるのが筋だと思うの。美希、お仕事でお昼まだだし。お腹ぺこぺこ」
 「まぁ、その考えを百歩譲って認めたとしてだ。二人でも食える量じゃないだろ。それになんだよ、おにぎりって」
 「おにぎりは美希の大好物だから。いくらでも食べられるよ!」
 「この量も?」
 「美希は育ち盛りだもん」
 「太るぞ」
 小気味のいい会話。宙の最後の一言に、美希は顔を真っ赤にして、腹いせとばかりに料理をたいらげ始めた。もはや暴食と言うに相応しい食べっぷりだ。なんだか財布の中身そのものが美希の胃の中に納まっていくようで、宙は物言いたげな視線を送ったが、無論、美希は無視を決め込んだ。遂にデザートに魔の手が迫る。
 痛い出費に頭を悩ませていると、ふと、美希の様子がおかしいことに気づいた。窓の外をさりげなく伺っている様子だった。疑問に思って聞いてみると、
 「人目が気になって。さすがに男の子と二人きりのところ撮られたりしたら、色々と大変なの。悪徳記者とか案外しつこいし」
 アイドル生命の問題、ということだろう。そういえば、先程まで普段はしない伊達眼鏡をかけて、顔を隠せるつばの広い帽子を被っていたのも、なるほど、変装という意味合いがあったのか。
 だったら、わざわざ自分を連れ出すこともないのに。そこまで思って、いや、違うな、と宙は考えを改めた。
 また気を使ってくれているのかな。宙はテーブルに肘を着き、顎を手の平に乗せながら、横目で美希を見やった。孤児院を訪れたことで多少調子を取り戻した宙だったが、如何せん、まだ思い悩む日々が続いていた。美希としては、先日の件を言い出したのが自分なだけに、宙の様子を案じているのだろう。
 ……いつの間に、そんな気を使う仲になったんだ。
 カイエンの言葉が脳裏を過ぎり、宙は溜息を吐いた。不本意だが、美希がそういう考えならば財布が空になるのもやぶさかではない。借りは返さないといけないのだ。
 皿も空になり、食後の紅茶でゆっくりしていると、散歩をしないかと美希に誘われた。次の仕事まで時間があるらしい。しょうがなく、宙は席を立った。こうなったら付き合うのが筋というものだろう。甘くなったな。自己分析。
 美希に案内されたのは、新宿で一番大きな公園だった。青い芝生の広場があり、平日にも関わらず親子連れが何組もくつろいでいて、賑わいを見せている。しばらく歩くと、美希が池の前で立ち止まった。池には鴨の群れが集まっている。
 「ここにね、美希の尊敬する先生がいるの」
 先生? と聞く前に、美希は池の方を指差した。よく見ると、鴨の群れの中から、こちらに向かって来る一匹の鴨が。
 ……まさか。
 「先生、お久しぶりなの!」
 「ああ、やっぱりその鴨が先生なのか」
 予想通り過ぎて肩を竦めた宙だったが、美希はそれを気にする様子もなく柵越しに鴨に手を振った。ぐわっ! と一鳴きした鴨が挨拶を返したように見えたのか気のせいだろうか。鴨を先生と慕っているあたり、年相応に美希の幼さを感じさせた。
 「どうしてその鴨が先生なんだ?」
 「ん~、なんて言うのかな。いつものんびりしてて、気ままに生きてる感じが、美希の理想通りの人生だなって思ったの。だから先生って呼んでるんだ」
 なるほど、と納得できてしまうのは美希だからだろう。確かに美希のマイペースさは鴨の自由気ままな様子と重なるものがある。鴨ないし水鳥という類の生き物は、水面では必死に足を動かせているものなのだけれど。
 しばらくの間、鴨と戯れる美希を眺めながらベンチに腰を下ろしていた。
 再びカイエンの言葉が浮かんできて、取り留めもなく思考していると、やがて沈思黙考に切り替わる。誰かに頼ってもいい。そうは言われても、心を許すという行為には恐怖心が付き纏う。また裏切られたら、と。どうせ裏切られるくらいなら、いっそ誰も信じない方が楽なことを、宙は知っていた。
 辛いこと、苦しいこと、全て一人で背負っていた方がいいのだ。
 「ここ、座ってもいいかしら?」
 難しい顔で考え込んでいた宙は、不意の声に顔を上げた。
 声の主は、変わったサングラスをかけた美女だった。
 日本人のようではあるが、紙の色素は抜け落ちてどこまでも白い。それでも髪には艶があり、ふわりとなびいた髪からは良い匂いがする。特徴的なのは細いコードの延びたサングラス。黒のデニムパンツにジャケットを羽織ったラフな格好で、豊かな胸が強調されるやや的扇情的な着こなしをしている。手には小さい手提げバッグを持っていた。
 別段断る理由もなく、宙は隣を空けた。相変わらず人との距離感を気にしてベンチの端に腰を下ろしはしたものの。女性は気にする様子もなく、何をするわけでもなく座って足を組んだ。沈黙が続いて、
 「元気のいい子ね。可愛らしい彼女を持てて彼氏としては鼻が高いかしら?」
 「いや、別にそういう関係じゃ……」
 「あら、ガールフレンドかと思ったわ。あの子可愛いし、お似合いなのに」
 「そ、そうですか」
 ええ、そうよ。女性は首を縦に振る。会話は突拍子もなかったが、その後も女性は世間話のような取り留めもない話題を宙に振ってきた。暇人だな、などと内心で呟きはしたが、思いのほか二人の会話は弾んだ。通りすがりの人々から見れば、仲の良い姉弟が楽しく雑談をしているように映ったことだろう。
 宙は状況に驚きを隠せなかった。人との距離感に抵抗を持つ自分が、出会ったばかりの女性と心地よく話をして、そればかりかどんどん惹きこまれていく。それだけ女性には無視できない、不可視の引力が働いているのだった。
 なにより既視感を覚えた。そう、以前もどこかで、この女性と話をしたことがあるように思える。そんなはずはないはずなのに。まるで、擦り切れたビデオテープを再生しているみたいに、セピア色の感覚がぼんやりと蘇ってくるのだ。
 疑問符を浮かべながら、他愛もない会話を続けていると、
 「宙くん、そろそろお仕事の時間かも。ってあれ? その人誰?」
 先生もとい鴨と十分戯れたのか、満足そうに美希は戻って来た。宙もそろそろ基地に戻らなければならないので、頷いて立ち上がる。
 「じゃあ、俺はこれで……」
 「あら、そう。話し相手になってくれてありがとうね」
 女性は柔和な笑みを浮かべ、
 「でももう少し付き合ってもらおうかしら、天川宙」
 宙の名前を、確かに呼んだ。
 ん? と首を傾げる。名乗った覚えはないはずだが。対し、女性はバッグの中からハンカチを取り出して、それをおもむろに、目の前に立つ美希の身体に押し付ける。
 ハンカチからは何故か、かちりっ、という金属的な音が聞こえた。
 「動かない方がいいわよ」
 女性は無表情で言い放ち、ハンカチの端をちらりと捲った。
 そこには黒光りする金属の塊が見えた。硬質的なそれ。実際に見たことはない。しかし、知識としては知っている。現実味がないせいで、一拍遅れて、宙は目を見開いて凍りつく。
 「宙くん?」
 「星井、動くな。絶対に動くなよ」
 宙の震える声に事態の異常を感じたのか、美希は眉を下げて不安そうに黙った。
 美希に押し付けられているのは、紛れもなく銃だった。
 宙は知る由もないだろうが、女性が美希に押し付けている銃は、最近になって実用化された最新型の小型銃だった。レールガンの技術を応用した代物で、火薬は使わず、特殊な弾丸を電磁加速で撃ち出す。そのため静音性が高く、また小型ながらも威力も高い。
 小型であるため持ち運びしやすく、静音性が高いため射撃音が周りに聞こえないメリットがある。今回の場合、市街地での使用を考慮するとまさに打って付けの代物だった。
 だが、詳細など知らない宙にとって見れば、アクション映画の中に迷い込んでしまったかのようなこの現状の方が恐ろしい。
 状況は予想外の方向に転がりつつあった。ハンカチを押し付けている当の女性は、宙に睨み付けられても平然として、それどころか笑みすら浮かべている。
 「少し付き合ってもらうだけよ。余計なことをしなければ、安全を保障するわ」
 「あんたは何者なんだ。なにが目的でこんなことを」
 「こっちも仕事なのよ。目的はね、ヴェルトールのアイドルマスターを確保すること」
 ヴェルトールのアイドルマスター。それはつまり宙のことである。IDOLについて知り、その上でこんな行動を起こす連中を、宙は一つしか知らない。
 「考えていることは正解よ、“坊や”。会ったのはこれで何度目かしら?」
 トゥリアビータ。血液が沸騰してしまいそうな怒りが込み上げてきても、女性に掴みかかることはできない。人質同然の美希のことを考えれば、無理な行動を起こすのはナンセンスだ。それに女性は、会ったのは何度目か、と言った。いつ、どこで? 宙は必死に冷静さを保とうとするその意識の中で、彼女の正体に思考を巡らせる。
 ――“坊や”。
 そこではっとした。神経を逆撫でし、異常な不快感を与えるこの呼び方。
 「あんた、まさか……!」
 「名乗るのは初めてかしら。私はトゥリアビータ所属、プロメテウス3ヌービアム専属アイドルマスター」
 最初の出会いから、戦いという名の絆で結ばれた二人は。
 ついに出会った。

 「リコリスよ。よろしくね、坊や」

 リコリスは心底嬉しそうな笑みを宙に向けた。その笑顔が何を意図しているのかは判然としなかったが、宙に出会えたことを喜んでいるのは確かだった。反して宙は警戒心を高め、宿敵の姿を隅々まで観察する。
 「そんなにじっと見つめて、お姉さんに惚れちゃったかしら?」
 「馬鹿にするな!」
 リコリスの挑発を一蹴する。とはいえ、リコリスがこの場を支配していることに変わりはない。全ては奴の手の内か。気づけば、血が滲みそうなほど強く拳を握っていた。
 ……落ち着け。下手には動けないんだ、考えろ。頭を回せ。
 リコリスの狙いは自分だ。目的の意図は簡単。トゥリアビータは二度ヴェルトールの奪還に失敗している。ならば、まずはマスターからということなのだろう。宙以外にヴェルトールを動かすことができないのは、リコリス達も推測できているはず。
 できることは限られている。無茶な行動をして美希が撃たれるようなことがあれば、寝覚めが悪い。ここは大人しく従い、時間を稼ぐのが妥当だ。仮にも新宿はモンデンキントJPのお膝元。様々な箇所に仕掛けられた無数の監視システムが、必ずや宙達の状況を基地に伝えてくれるだろう。そうすれば――。
 「時間を稼ごうとしても無駄よ。この街のセキュリティはもう墜ちてるもの」
 宙の心を見通したように首を振って、リコリスは空いた手である方向を指し示す。
 そこには隠蔽された監視カメラがあった。けれど起動中であることを示す赤いランプは消えている。カメラのレンズはまったく宙達を映し出してはいない。
 「ウチには優秀なハッカーがいるの。その子が、今頃宇宙に上がっているIDOLとモンデンキントに“悪戯”をしているはずよ。その隙を狙ったわけ」
 「悪戯……? 春香達か!? あいつらに何をしでかすつもりだ」
 今日この時間帯、宇宙ではインベルとネーブラが本部から依頼された仕事をこなしているはずだった。ドロップの早期警戒のために新型の小型衛星を設置するのが目的だ。
 自分にはどうすることもできないのか。その事実が心に爪を立てる。黙って様子を伺うことしかできないのが、歯痒かった。
 「さぁ、お喋りはここまでにしましょう。一緒に来てもらうわ」
 リコリスは改めて美希に銃を押し付け、宙に命令した。

                   ●

 作戦完了。無事、衛星の配置を完了すると、管制室の面々は緊張から解放された。
 モニターにはインベルとネーブラの姿。二機のIDOLは衛星を射出するのに使用したランチャーを収納し、すでに帰還ルートに入っている。
 『簡単なミッションねぇ。私ほどの実力者には退屈すぎて話にならないわ』
 「そう言わないの。本部から直々のお仕事なんだから」
 不満げな表情で通信する伊織に、小鳥は人差し指を立てて注意した。もっとも、伊織達の実力では少々味気ないのは小鳥も同意する。
 だが飛ばした監視衛星によって、ドロップに対する早期警戒に少しでも役立つのであればそれに越したことはない。依然上昇するドロップ落下率への対策は多い方がいい。本部もそれを見越してのことだろう。
 小鳥がそう考えていた時である。
 「本部より入電、ドロップです。数二、ドロップアルファ、ベータともにステータス・レモン。出撃要請です!」
 オペレーターの一人が本部からの要請を読み上げる。続いて自分のモニターに表示される情報を小鳥も確認し、すぐさま把握する。確認されたドロップは二つ。すでにIDOLは宇宙に上がっているため、迎撃は比較的余裕をもって行うことができるだろう。
 「情報を各IDOLへ送信。インベルとネーブラは帰還行動を中止。そのまま迎撃行動に移ってください」
 状況を確認し終えたジョゼフが迅速に対応を下し、小鳥が話を引き継ぐ。
 「仕事の連続で悪いけど、二機ともいける?」
 『大丈夫です! インベル、いけます』
 『ネーブラも問題ないわ!』
 管制から送られてきた情報を元に、二機は分かれて各々の目標地点を目指す。ステータスはレモン。それほど大きいサイズではなく、迎撃自体はさほど難しくないはずだ。
 しかし、目標地点に辿り着いたマスター達は首を傾げた。肝心のドロップが見当たらないのだ。現在位置を確認したが、座標に間違いはない。
 『小鳥さん、ドロップが見当たらないんですけど……』
 春香の問いに、そんなはずはない、と返す。データ上ではとっくに視認できる距離に近づいている。けれど、当の本人達にはドロップの影すら、ちらりとも映らなかった。
 真偽を確かめるべく、春香達に再度座標を確認した小鳥は、
 「目標アルファ、ベータともにロスト!」
 オペレーターの悲鳴染みた叫びを聞いた。自分でも信じられないような面持ちで、司令室の面々も耳を疑った。ドロップが急に消えるはずがない、と。
 続けられた言葉が、管制室を更なる恐怖へと突き落とす。
 「複数のドロップを確認! 三、四、五……。いえ、六つです!」
 「馬鹿な!」
 ジョゼフが思わず声を張り上げる。いくらなんでも、六つものドロップが同時に落下してくることなど前例がない。しかし現実として、衛星の観測情報は複数のドロップを示し続けている。見過ごすわけにいかないのも事実。ジョゼフは即座に、新たな出現したドロップの迎撃を行うよう指示を出した。
 『くっ、ドロップ確認できず!』
 『こっちもです!』
 千早とやよいの声にも焦りの色が混じっていた。そこに在るはずのドロップが、またしても見つからない。そもそも見落とすことの出来るサイズではないので、本当に存在しないということになる。衛星の誤認? 複数を、それも一斉に? 否、有り得ない。
 「これは悪夢か……」
 三つ目、四つ目も確認できず、ジョゼフはわなわなと震えながら呟いた。小鳥も例外ではなく、何度も情報の間違いがないか洗い出す。結果、情報に偽りはなく。逆にそれで勘づいた。これは人為的に誤情報を流されているのでは、と。
 まさか――。
 「ハッキング……!?」

                    ●

 この時期になると陽が落ちるのも早い。空は黄昏色に染まりつつある。夕空にたなびく雲はまるで黄金が流れているようだった。
 連れて来られたのは、元お台場付近にある海辺の通りだ。おかしな挙動をしないように言われ、銃はハンカチで隠されていたので、誰にも不審がられることはなかった。いや、この場合は都合が悪いことこの上ないのだが。
 美希の心情は恐怖一色だ。
 自分に向けられているのが人殺しの道具だと分かると、心臓が爆発してもおかしくないほど脈打った。悲鳴をあげなかっただけ、自分はよくやったと褒めてあげたい。もっとも、叫んでいたらどうなっていたのかは想像したくもない。
 道中、リコリスは散歩をしているかのような面持ちで、宙に対しいくつも質問を投げかけていた。それは機密に関わる情報についてではなく、宙の生活や心境、日常に関することがほとんどだった。
 美希が人質に取られている手前、質問を蔑ろにするわけにはいかないからか、宙は質問に丁寧に答え、聞いたリコリスはその度に相槌を打っている。
 「俺のことをいくら聞いても、機密なんぞ出てこないからな」
 また質問に答えた宙は素直に疑問を口にした。利益になりもしないことを聞き出して、一体何の得があるというのか。それとも、このやり取りにも裏があるのだろうか。
 リコリスの返答は単純だった。
 「別に、あなたに興味があったからよ」
 「俺に? どうして?」
 「天川マツリ」
 宙が息を呑むが分かった。リコリスは立ち止まり、美希と宙も足を止める。サングラスの奥で光る瞳が、じっと宙を見据えている。
「天川マツリという人間によって、私達は繋がっているの。私も坊やも、あの女の呪縛に囚われたまま生きているのよ」
 マツリの名前を口にした途端、リコリスの雰囲気ががらりと変貌した。敵でありながらもそれまで柔らかい物腰だった態度は、一変して強烈な怒りや憎悪を感じ取れるようになっていた。撃たれるのではないか。美希は身体を震わせる。
 「あんた、姉さんとどんな関係が……。その口振り、結構知っているように聞こえるけど?」
 「……あの女の存在が私を縛る。坊やも同じ。天川マツリがこの世に存在したという事実が残る限り、私達は自由ではないの。だから私は、あの女が憎い」
 「言ってる意味がわかんねぇよ!」
 憤慨して宙は声を荒げた。以前、訓練室で美希を怒鳴ったよりも強い口調だ。怒っている時の宙は怖い。美希は厳しい形相の宙を見ていつもそう思う。天川マツリが関わっていることには、特に。どうして、そんなに怖い顔をするのだろう。
 怯える美希に気づかず、
 「姉さんが憎い? それなら俺はお前達が憎い! 俺から姉さんを奪ったお前達が憎い! だから俺は戦っているんだ。姉さんの仇を取って、お前達に復讐するために!」
 宙は視線でリコリスを突き刺す。まるで宙を突き動かす意思の根源が顕れているよう。
 それを聞いたリコリスは、呆れたように首を振った。それだから縛られているのよ、と溜息混じりに呟いた言葉には、わずかに失望したようなニュアンスも含まれている。
 思わず胸倉を掴もうとした宙に、リコリスは“ハンカチ”をかちりと鳴らせて見せた。
 「少し状況を考えなさいな。この場の決定権を握っているのは、私よ?」
 金属音で、冷水を浴びせられたように宙の顔から血の気がさっと引いた。同時に思考も冷静さを取り戻し、屈辱に歯噛みしながら、頭を深々と下げた。
 「悪かった、許してくれ。……だから星井には手を出すな。そいつは関係ない」
 「お利口さんね。物分りの良い子は好きよ。――それにしても、意外ね」
 リコリスは腰に手を当てて、
 「他人を拒絶する節のある子だって聞いていたけど。案外、仲間想いじゃない」
 「え?」
 まぁ、いいわ。そう言って再び動き出したリコリスに従い歩き出す。美希が先頭で、背中に銃を押し付けているリコリス、その左後ろに宙だ。
 ……まだ歩くの?
 もう限界が近かった。いつ撃たれるかも知れない緊張状況が続いては発狂してしまう。どうせなら、いっそ殺してくれた方がどれだけ楽だろうか。
 誰か助けて! 声高に叫べたら。試しに小さく声を出そうとしたが、しかし驚いたことに声が出なかった。恐怖のあまり声も枯れてしまったのか。もはや助けを請うこともできない自分に、美希は深く絶望した。
 もう誰も助けてくれない。ずっと我慢してきた涙が、今にも溢れ出しそうだ。
 ……死にたくない、死にたくないよう……!
 純粋な生への渇望に苛まれた時、
 「星井、心配すんな。大丈夫だから」
 陽気な声に振り返ると、肝心の宙はあろうことか笑顔だった。ぎこちない笑みで、無理矢理なのが丸分かりだ。恐怖に顔が引き攣っているのではなく、単純に、笑顔を作るのが苦手なのだろう。ひらひらと手を振って、この状況を何でもないように見せた宙は、
 「こいつの狙いは俺。それに、抵抗しなければ危害は加えない。そうだろ?」
 「ええ、そうね。街中で死体を出すのは得策ではないわ」
 撃つ気があるのなら、こんな明るい場所には連れて来ないだろう。ここより人気のない場所だっていくらでもある。リコリスは宙を確実に捕らえるため、行動しているだけだ。宙が大人しく従っている内は、美希の安全は保障される。
 それでも怖いものは怖いのだ。首筋に死神が手を添えているような奇妙に冷たい感覚を感じている美希にとって、言葉は気休めだ。おそらく宙も理解している。それでも、一度言葉を区切った宙は精一杯明るい様子で言った。
 「いざって時は守ってやるさ。必ず、な」
 柄じゃないな、という苦笑。曖昧で不確実な約束だったけれど、美希は嫌な汗がすぅと引くのが分かった。心臓の高鳴る鈍い音が少し和らぐ。人はそれを安心と呼ぶのだ。
 うん、宙くんは笑ってた方がいいよ。素直な感想を抱いた美希には、宙の心強い言葉が胸に染みる。守るって言ってくれた。相手は銃を持って、宙は丸腰、美希は人質。こんな状況では戯言のような約束だけど、それでも、笑顔になれた。まだがんばれると思えた。
 「無駄話は控えめにね。あまり喋り過ぎると、うっかり引き金を引いてしまうかもよ?」
 妖しく微笑むリコリスに、宙は眉を吊り上げる。歯を食い縛っているのは耐えかねた怒りをそれでも殺しているからだ。リコリスへの怒りと、美希を巻き込んでしまった自分への怒り。この状況を作ったのは宙くんのせいじゃない、トゥリアビータのせいなの。声が出ていたら、すぐにそう言ってあげるのに。
 「まぁいいわ、そろそろ時間だしね」
 リコリスは海沿いの道端を視線で示した。そこには波止場へと降りる階段があり、無数のテトラポッドが海に投げ込まれていた。下へ降りろということだろう。指示通り波止場に歩を進めた宙と美希は、地平線に沈む夕日に目を細める。
 「さて、そろそろ散歩もおしまいにしましょうか」
 言葉が契機となった。
 少し離れた場所で、静かに波打っていた海面が突如盛り上がり、水飛沫とともに盛大に空に舞い散った。水の弾けた音は、半ば爆音にも似ている。そして、ゆっくりと起き上がった巨大な影。黒いIDOL。
 「ヌービアム、こんな近くに……」
 「今、この街の監視も含めた全てのシステムはひどく掻き回されているから、ヌービアムの接近にも気づかなかった。いえ、気づけなかったというわけよ」
 「……これからどうするつもりだ」
 「言ったでしょ? 狙いは坊やだけ。他はどうでもいいの」
 「俺を捕まえたところで、おまえ達の所にヴェルトールが返ってくるわけじゃない」
 「今はそれだけで好都合なのよ。今は、ね」
 「なんだって?」
 意味深な台詞を放って、リコリスはヌービアムを呼び寄せた。このまま宙を連れ去るつもりだろう。その後、美希はどうなるのだろうか。助かる? 殺される? 不安な要素はいくらでも挙がる。しかし、もう確定しているのは、
 ……宙くんが連れて行かれちゃう!
 「乗りなさい。抵抗しなければ、この子は無傷で帰してあげる」
 卑怯な提案だ。要求の内容を考えれば、宙は断ることなんてできないのに。
 案の定、宙はヌービアムへ足を動かした。一度だけ美希へ振り向き、複雑な表情だけ残して、彼は差し出された巨人の手の平に――。
 「……失敗した? 予定時間より早いんじゃない?」
 ちょうどその瞬間、リコリスが声をあげた。
 彼女は襟元に隠したフォンマイクで誰かと話していた。口調に焦りはなかったが、聞き取れる内容はあまり良い報せではないようだ。
 想定外の事態を受けたからか、美希に押し付けたハンカチ=銃が、わずかに下ろされる。
 刹那の思考。決断。行動。
 ……ど、度胸なの!
 神経を尖らせていた美希は、一瞬の油断を逃さなかった。特に手足は拘束されていないため、美希は勢い良く振り返り、銃を持った手を振り払い、力の限りリコリスを突き飛ばした。鳩が豆鉄砲を食らう、とは今のリコリスを言うのだろう。こんな子供が銃を向けられて、ここまで突発的な行動を取るのは予想外の一言。
 もちろん美希だって怖かった。失敗したら撃たれるのも目に見えていた。
 それでも彼女を突き動かしたのは、守ると言ってくれた宙の存在があったからだ。きっと宙が助けてくれるんだと、信じることができたから身体が動いてくれたのである。
 やった、後は逃げるだけだ。美希は勝利の感情に歓喜の笑みを浮かべて、宙に視線を送る。さぁ、早く逃げてなの!
 けれど。
 宙は必死の形相で、美希の名前を叫んでいる。
 気づけば、無表情のリコリスが、露わになった銃を美希に向けていた。
 時間が止まる。一秒が何分にも何時間にも引き伸ばされたかのよう。自分に向けられている銃口の奥の闇が、しっかりと目に焼きついた。
 殺される。直感的に美希は悟った。意外にも恐怖はない。死ぬ前に浮かび上がるという走馬灯もなかった。ただ意識が真っ白で、目の前の死だけを見つめていた。
 ……あれ? おかしいな。美希、これで宙くんと一緒に逃げて――。
 刹那、無情にも弾丸が迸った。

                  ●

 時間は少し遡る。
 宇宙では無数のドロップが現れては消え、その都度、インベルとネーブラは本当に在るのかも知れない目標を粉砕するため、行き来を繰り返していた。
 にも関わらず、ドロップのどれもがデータ上にしか存在しないフェイク。一つとして本物が確認されることはない。全てが偽物ではないか、という推測はもちろんあったが、もし本物が混じっていた場合その考えは致命的だ。
 マスター達の体力も限界である。長時間の操縦に加え、この極限下において緊張の糸がほぐれることはない。無重力下のコックピットには文字通り玉の汗が浮き、着込んだ下着まで汗を吸い込んで重くなっている。
 インベルが新たに出現したドロップの迎撃に向かう。その姿にエールを送りながら、黙々と機器を操作する女性がいた。
 音無小鳥である。彼女はモニターに走る文字の羅列と格闘を続けていた。
 ……だめ、ここの防壁もすぐに破られる!
 管制室の面々がハッキングに気づき、情報防壁を起動させてからしばらく。すでに大半の自動防御を突破していた謎のハッカーは、防御をものともしない異常な侵食速度を小鳥達に見せつけた。基地の莫大な演算システムを借りて対応しているにも関わらず、一般的なマシンの数世代先を行くモンデンキントの頭脳が、まるで赤子のよう。
 ただの相手ではない。ウィザード級。それもこちらと同様、強力な演算システムをバックアップにつけた存在。だとすれば、
 「トゥリアビータ……!」
 モンデンキントに電子戦を仕掛けてくる相手など、彼ら以外にいて堪るものか。
 データハックは予想を遥かに上回る勢いで進行していく。第三、第四、第五、次々と破られていく情報防壁が小鳥達の心をも犯していった。
 「せめて宙さん達と連絡が取れれば……」
 ジョゼフは厳しい口調で言い漏らす。基地のシステムを掻き回されたせいか、東京一帯のセキリュティまでもがダウンさせられている。現在別部隊が復興作業に尽力しているが、ハッキングそのものを停止させないかぎり難しいだろう。
 トゥリアビータが噛んでいる以上、この瞬間、孤立している宙達の身に何が起こるか分からない。
 過去の記憶が奥底から蘇ってくる。
 四年前、叫ぶ自分、届かない声、そして――。
 ……嫌よ、そんなの!
 マツリを、親友を失った時の悲しみや虚無感。宙から向けられた憎しみ。この四年間、小鳥は様々なものを味わってきた。だから、もう誰も失いたくない。
 「何か打開策は――」
 その時、怒涛の勢いを誇っていた侵食の勢いが突如として弱まった。先の速度から見れば、時が止まったようにすら思える速度の減衰。小鳥は、それが基地内の回線を通して介入する存在のおかげだと、遅れて気がついた。場所はIDOLの格納庫からだ。
 「まさか、IDOL達?」
 修理作業中のヴェルトールと、テンペスタース。
 誰かが操作している様子はない。彼らは無人で、自らの意思で起動したのだ。
 ……私達を助けるために?
 いや、違う。彼らはあくまで、所在の分からなくなった己のマスター達の身を案じているに過ぎない。その証拠に、オペレーターの報告が耳朶を打った。
 「ヴェルトールが無人で起動! チャンネル9より外に出ようとしています!」
 大方、宙達の所在が分かったのだろう。自ら迎えに行くつもりなのだ。まったく、IDOLという存在には毎度驚かされる。だが、だからこそ、自分やマツリは彼らに惹かれたのだということを思い出し、くすりと喉を鳴らした。
 宙達のことはヴェルトールに任せておこう。今は、自分の与えられた役目を果たそう。
 小鳥は表情を引き締め、ハッカーの駆除を再び開始した。

                  ●

 浸かった紫色の液体はそろそろ湯気を出し始め、リファは湯浴みを満喫しているような心持ちであった。実際、感覚は風呂と大差なのだがやっていることは大違いだ。
 バスタブに満ちている液体は特殊な媒介で、リファはそれを介してあらゆるコンピューターに侵入、攻撃することができる。いわゆるクラッキングと呼ばれるものである。
 攻撃対象はモンデンキントJP・アイドルマスター課。ドロップの観測状況をリアルタイムで書き換え、あたかも無数のドロップが現れたように偽造しているのだ。驚愕と焦りで歪む敵の姿が目に見えるよう。
 しかしそれもつい数分前の話。
 「むむむ、案外手強いかも……」
 ある程度セキュリティを攻略した辺りから、相手の抵抗がいきなり強くなったのだ。
 トゥリアビータの誇る大型電算システムをバックアップにつけているにも関わらず、問答無用で押し返してくる様子は津波の如く。強力なリファの能力を持ってしても持ち堪えるのが精々。ましてや、東京都の監視網と並行してでは無理がある。
 「リファ、負けないんだから!」
 意気込んで肩まで液状媒介に浸かったリファ。こうなれば徹底抗戦だ。
 しかし、元々タイムリミットのある作戦の都合上、あまり時間を食うわけにはいかなかった。情報処理が加速すればするほど、液体の温度は急激に上昇していくからだ。リファの耐えられる温度の限界が、作戦のリミットとなる。
 液状媒介を通してモンデンキントの情報防壁を食い破ろうと試みたが、こちらの演算速度を上回る勢いで遮断され、逆に侵入した領域をどんどん押し戻されていく。
 いつの間にか液状媒介は熱く煮え始め、バスタブから繋がるコードは蒸気を出しながら悲鳴をあげていた。リファの身体もすでに真っ赤で、我慢もそろそろ限界だ。
 もう少し、もう少し、もう――。
 「もう駄目ぇー!!」
 バスタブからリファが飛び上がったと同時、周囲の機器類からはエラーアラートがうるさく鳴り響いた。

                   ●


 美希の帽子が舞った。ひらひらと、不規則に揺れながら地面に落ちる。
 一瞬意識が飛んで、次に視界に映ったのは美希の顔だった。宙は美希を抱き寄せる格好で地面に倒れこんでいて、腕の中の美希から荒い吐息が耳に響く。美希の身体は華奢で、腕は力を入れたら折れてしまいそう。小さな身体。唯一、反比例する豊かな胸が宙の身体に当たって、不謹慎にもどきりとした。
 ああ、馬鹿なことを考えているな。宙が苦笑を漏らすと、
 「宙、くん……」
 美希は引き攣った声を出した。身体は小刻みに震えて、愕然とした表情を見せる彼女は、ぽろぽろと涙を流しながら宙を見ていた。
 何故、泣いているんだ。そう聞こうとすると、

 ぽたり、と。美希の頬に赤い液体が垂れた。

 痛みを感じたのはその直後だ。頬が灼熱感に苛まれ、痛みに顔の筋肉がわずかに硬直した。触れてみると、右頬が一直線に掻っ切れていた。否、正確には皮膚が破かれていた。
 リコリスが美希に銃口を向けたのを見て、宙は考えるより先に走った。勢いに任せて美希を地面に押し倒したと同時、放たれた弾丸が宙の頬を掠ったのだ。幸い傷はそこまで酷くない。しかし鋭利な切り傷ではなく、ぐちゃりと抉れた頬の裂け具合は少しグロテスクでもある。掠っただけで済んだのは幸運だった。
 馬鹿野郎、泣く奴があるか。だって、だって……! 泣きつく美希を持て余していると、後ろで再び金属音を耳にする。
 リコリスは銃口を二人に向けたままだった。真っ直ぐに狙いを定めた銃口の奥は、まるで夜の森を連想させる暗がりを覗かせている。この瞬間、生と死の狭間が宙の意識を何倍にも引き伸ばし、時という概念を擬似的に捻じ曲げる。美希の吐息と、己の鼓動だけが、宙にとっての生きている実感だった。
 「王子様ごっこもそれでおしまい?」
 「……」
 無言。耳が痛いくらいの沈黙が辺りを支配する。
 あちらには銃があって、おまけにヌービアムが鎮座している。やろうと思えば、次の瞬間には二人を踏み潰せるはずだ。それをしないのは、それだけ宙に価値を見出しているからか。否、ヴェルトールに。
 相棒のことを思い出す。おまえがここにいればいいのに、と宙は願う。
 凶暴な昂ぶりを込めた銃口を前に、美希を庇う様に抱いた宙は、こいつだけは助けてやらなくちゃと思った。無事に帰してやらないと。
 想いに続くように、疑問が生じる。どうして助けなくてはならない。たかが他人なのに。どうでもいいはずなのに。――自分が死ぬかもしれないのに? 他人を庇って自分は死ぬかもしれないのに? どうして自分は、こいつを守らなくてはならないのだろう。
 ……難しいことじゃないんだ。
 至極単純に、美希が傷つくのは嫌だったからだ。“仲間”が傷つくのは辛いと思った。
 『案外、仲間想いじゃない』
 あの時、リコリスにそう言われて、不意に、この半年間の記憶が過ぎった。
 最初はマツリの無念を晴らす以外は眼中になく、あずさの優しさも煩わしかった。他の連中が付き纏ってくるのも、宙の得体の知れなさにつまらない興味本位を抱いただけだろうと高を括っていたのだ。けれど、そうではなかった。
 復讐のためにアイドルマスターとなった自分を、暖かく迎え入れ、仲間だと信頼を寄せ、こちらの反発に嫌気をさすでもなく歩み寄ってくれた人達。誰も信じられなくなってから忘れて久しい、“楽しい”や“嬉しい”という感情を思い出させてくれた。
 だからかもしれない。美希に、守ってやる、なんて似合わない台詞を言えたのは。
 だからかもしれない。弾丸を前に飛び出していけたのは。
 だからかもしれない。彼女達の笑顔が心の内に刻まれているのは。
 鳥は、片翼では飛べない。マツリの強さも、きっと誰かを想うことで生まれた力だ。宙のこと、カイエンのこと、小鳥のこと、高木のこと。彼女はそれを理解していたからこそ、強かったのだ。今なら分かる。そう信じられる。
 「俺はこいつを守る」
 宙は立ち上がってリコリスの前に立ち塞がり、腕を大きく広げて、美希の盾となった。どこからともなく力が沸いてきて、身体中に漲った。リコリスは訝しげな視線を宙に向ける。銃口が宙から逸れることはない。
 「……駄々をこねるなら本当に撃つわよ」
 「大事な奴らだから! 俺が守ってやる! 撃たれても絶対ここを退くもんか!!」
 誰かを頼ってもいいのなら、怖いけれど、宙は彼女達を信じてみたかった。例えもう一度、裏切られる恐怖に怯えるとしても、彼女達の――あずさの笑顔を知ってしまったから。
 自分は、天川宙は――。

 “ここ”にいたい。

 水のように染み渡っていく感情は、宙の決意を力強く鼓舞した。
 ――ソラ。
 「え……?」
 誰かが宙の名前を呼んだのと同時、地面が小刻みに揺れ始めた。それは徐々に激しさを増し、その場にいた全員が厳しい表情で辺りを見渡たす。地震にしては揺れが長過ぎる。やがて海が沸騰したように泡立ち始め、うねり、次の瞬間、天を貫く勢いで水柱が上がったのだった。一拍置いて、波止場を砕きながら降り立ったのは、鉄のIDOL。
 リコリスはかっと目を見開き、
 「ヴェルトール!?」
 予期せず現れたIDOLに表情を歪める。何故、と。何故ここに、と。
 反して宙はヴェルトールと心を通じ合わせた。
 「……助けに来てくれたんだな」
 宙の呟きが届いたのか、ヴェルトールは双眸を輝かせた。
 東京都内には、地下基地を中心にIDOLの射出ルートが多く存在する。ヴェルトールは、その一つを通ってここまで来たのだ。美希を守りたい、という宙の想いに応えて。
 「これほどまでに、マスターとIDOLの心が繋がっているというの!?」
 そう、繋がっているんだ。眼光の奥底から覗く決意の印。ヴェルトール、おまえが俺を信じてくれるように、俺もおまえを信じ抜く。だから、
 「ヴェルトール、一緒に戦ってくれ!」
 宙と美希を守って立ち塞がるヴェルトールに、リコリスは一歩後退った。ここでヴェルトールごと奪取するのは、リコリスとヌービアムの力を持ってすれば簡単なことなのに。何故か、得体の知れない重圧がリコリスを恐怖させていた。
 ……この私が気持ちで負けている!?
 自分の思考に、しかしリコリスが浮かべたのは凄絶な凶笑だった。この坊やは、どこまで私を楽しませてくれるの。嬉しさが込み上げてきてたまらない。
 もっと、もっと私を楽しませて。私の存在意義を教えて! もっともっと!!
 でも、今日のところは仕方がない。
 「――引き際、ね」
 リコリスは華麗にターンすると、一直線にヌービアムの手の平に飛び乗った。そのまま、常人とは思えないほどの身体能力でヌービアムの腕を駆け上り、コックピットへと。膝立ちから立ち上がったヌービアムは、わずかな間ヴェルトールと視線を交わし、ゆっくりと浮上していく。
 「逃げるのか!」
 「言葉の使い方を間違えてるわね、“見逃してあげる”のよ。……さすがに三対一では分が悪いものね」
 じゃあね坊や、また会いましょう。捨て台詞を残して、ヌービアムは黄昏に沈む空へと急上昇していく。壮絶な加速。瞬時の出来事だった。
 空の天蓋、すでに暗くなった一点へと消えるヌービアムを見つめ続ける宙は、緊張から開放された安堵感で胸を撫で下ろす。
 「……リコリス。トゥリアビータのマスター」
 リコリスと名乗った美女の正体は何一つ知れなかった。けれど何故か、頭の隅に残った小さなわだかまりが、不思議な波紋だけを残していたのだった。

                    ●

 ヌービアムが飛び去った後、宙と美希はすぐに保護された。
 どうやらリコリスが退いたのは、ハッカーを撃退し、ドロップ地獄から開放されたインベルとネーブラが戻って来るのを察したかららしい。その証拠に、ヌービアムと入れ違う形で、インベル達が基地へと戻って来た。三対一では分が悪い、とは言葉通りの意味だったようだ。
 頬の傷は手当が早かったため、幸い傷は残らないらしい。美希に傷ができたら大事かもしれないが、男の宙に傷の一つや二つ残ったところで、勲章のようなものだろう。
 しかし、まぁ、
 「馬鹿言わないでください! 男の人でも怪我をしたら一大事です!」
 と、正座であずさに説教させられているので、問題だということにしておく。
 真顔で怒ったあずさを拝むのは初めてだが、それはそれは、リコリスに銃を向けられた時とは別種の畏怖を感じてしまうくらい怖いわけで。正直、情けないことに、先程から背筋が冷たいわけで。
 それに周りにいる他の連中は、人の心配どころか、おもしろがってにやにやしながら観賞しているわけだし。
 「聞いてますか!?」
 「は、はい! しっかり聞いているであります!」
 「私なんて、宙さんがケガをしたと聞いて視界が一瞬真っ暗に……」
 仕事場からすっ飛んできたというあずさに、耳が馬鹿になるのではないかと思うほど叱られていると、そこへ、
 「あずさ、あんまり怒らないでほしいの」
 「あら、美希ちゃん。もう大丈夫なの?」
 「うん、平気。美希は大したケガもしてないし、全部“ハニー”が助けてくれたの!」
 医務室から戻って来て、両手を一杯に広げて健康をアピールする美希。よかったなぁ、と宙とあずさは頷いて――。言葉の端の妙な違和感に絶妙なシンクロで疑問した。
 「“ハニー”?」
 なにやら甘ったるい呼称に首を傾げた全員を無視して、美希は突然宙の首に手を回して、えいっ、と抱きついてきた。空間が止まってしまったかのような錯覚に襲われて、
 「……ん? って、おまえ、どういうつもりだ! 冗談も大概に!」
 「冗談なんかじゃないよ。宙くんは美希を助けてくれたの。まるで白馬の王子様みたいにかっこよくて……」
 美希はぐいっ、に顔を近づけて、
 「美希、恋しちゃった!」
 さらりと投下した爆弾発言に、周囲から大絶叫の嵐が乱舞した。春香を筆頭に数名は大ニュースだと騒ぎ立て、千早は何故か渋い、というか難しい顔でこちらを遠巻きに見ているし、あずさに至っては宙と美希を交互に見て、とても衝撃を受けている様子だった。
 おい、どういうことだ? あずさと顔を見合わせると、二人の間に割って入った美希は、千早とあずさにVサインを送りつつ。
 「千早さん、あずさ、美希負けないんだからね!」
 茹でたタコの如く赤くなったあずさと、私は関係ないと憤慨する千早、腕を掴んで離さない美希に、わけもわからず状況に困惑する宙、そして色んな意味で大スキャンダルなカミングアウトに各々賑やかに騒ぎ回るマスター達を残して。
 この日の事件は終結した。

                    ●

 ――そして歴史は動き出す時を迎え始めていた。
 トゥリアビータの基地に帰還したリコリスを待っていたのは、カラスだった。いつものように黒尽くめの男は、わざわざ格納庫まで来てリコリスを待っていたらしい。
 また任務を中途半端にした小言でも言われるのかな、と少々うんざりとした雰囲気のリコリスに、カラスは開口一番、
 「五番目の“ヒエムス”のコアを発見しました」
 冷たい、しかし歓喜したような笑みを携えて、カラスはリコリスに告げた。
 「場所はアイスランド。やっと、この舞台の役者が揃うというわけですよ」
 さぁ、時は満ちた。
 「開演の時間です。“アウリン”を開くため、華麗に、激しく、妖艶に、踊り狂ってもらいますよ。リコリス」
 人を悪と呼べるなら、きっとこの男の浮かべている表情こそ相応しい。

                    ●

 宇宙の底知れない闇の中、地球を囲うオービタルリングの外で、今まさに生れ堕ちようとしている生命があった。
 否、それを生命と呼ぶかどうか、人間の定義では計り知れないところが大きい。
 ただ“それ”は本能に従って、地球に向かおうとしていた。地球に墜ちた自らの分身を取り戻すために。分身の一部は“それ”の記憶――生れ落ちたばかりの存在に記憶はない。本体から供給されている情報というのが正しい――にはない姿をしていた。
 とりあえず、“それ”は分身に近い形をとることにした。
 ゆっくりと、籠の外から内側へと入っていくものを、誰も気づきはしない。



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